1999年11月22日(月)
イエス・キリストの父であられるヤーウューの神様!
あなた様を「ホサナ!」「ナントスバラシイコトデショウ!」「アリガトウゴザイマス!」と賛美申し上げます。
今朝、夢を見ました。
陸奥湾の海です。四方を囲まれた海です!
まるで、実際に見ている!ようでした。
そして、このしもべは、「オオ、ココハ、ナントスバラシイトコロデショウ!」と、言っていました!
まるで、このしもべが青森賛歌!という文を書いた!その様子を再現した!ようです。
数十万年前、上高森塚古墳に住んでいた人が、陸奥湾の海を見ながら感激したであろう様子の再現!です。
海があることがすばらしい、魚が捕れることがすばらしい、穏やかな、いけす!のような陸奥湾がすばらしい。と、
喜びの声をあげた時の再現!です。
あっそうです。
神様!このしもべはSさんに頼まれて、同窓会の会誌に載せる原稿を書いた!のです。
それを書いてお送りいたします。

青森賛歌
陸奥湾という天然のいけすを抱く町、青森。
5千年も昔から栄えた町。
高く柱を掲げて栄えた町。
皆の町。
エジプトの王のように、奴隷を使い、ピラミッドをも作らなかった町。
一人の栄誉のために、多くの民を虐げなかった町。
皆で楽しんだ町。
女はメノウや美しい宝石を身につけ、華やいだ町。
男は魚を獲り、それを振る舞い、宴席を設けた町。
血を流し、争い、領土を広げよう!ともしなかった町。
満ち足りていた町。
本当の紳士淑女の町。
知恵深かった人の住む町。
どうすれば、どうなって、どうなる!という事を知っているものの集団。
知恵あふれる町。
皆の町。
それが、今も生きている!
ねぶた祭り!として。
ねぶたを作って、皆で楽しもうと計画する心は、丸山文化の心!
文化に心があるなら、丸山文化は優しい心!穏やかな心!
冬の寒さが厳しい程、身はそれに耐え、心は鍛えられた。
雪解けの時、花咲く景のように、心は優しくなった。
冬のせつなさを共有し、優しくかばいあう精神を持った町、青森!
5千年の歴史を持つ町。
5千年間、人々は、そこで行き続け、代々行き続け、こともなかった町。
無欲の精神で、戦うことをかいなき事と悟りきった町。
高潔な精神は、そこで磨かれた。
雪のように真っ白な心は、そこで生まれた。
我が町青森。
白く輝く町。ねぶたの町、花火の町、りんごの町。
陸奥湾といういけすを持ち、三方を山で囲まれた町。
青と緑の町。
5千年変わらずに生きている静かな町、青森。
山を友とし、海を友とする町。
オーイと山に呼べば、オーイと山が答え、オーイと海に呼べば、オーイと海が答える町。
きっと数十万年前、岩手県と宮城県の境の上高森塚古墳に住んでいた人達がたどりつき、「オオ、ココハナントスバラシイトコロダ!」と、住み着いたのでしょう。
「海があることがすばらしい。魚がとれることがすばらしい、穏やかないけす!のような陸奥湾がすばらしい」と、喜びの声をあげたはずです。
もしかしたら、一番良い所!だったかもしれません。
遙か550万年前、アフリカで端を発した人間が、歩いてユーラシア大陸の端までたどりつき、日々の糧として魚や貝を食べる生活には、最高の地!だったかもしれません。
最も良き地に住まわせていただいた!と、喜んでいるのは、丸山の人達、そして私、そして青春の日々、共に勉学し、共に時を過ごした学友達なのです。
ウニやアワビやホタテやヒラメやキンキンやホッケやイカ、たくさんのおいしいモノを与えてくれてアリガトウ!
あるものに感激し、あらせたものに感謝します。
あるものの一人として!

という文です。
本当は、神が創られた人間!と、書きたかった!し、あらせた神に感謝して!と、書きたかった!のです。
神様!イスラム教とのお祈りには感心致します。
あなた様を本当は、あんなに敬虔に賛美しなければいけない!のですよね。
だって、数え切れない程たくさんのメカを創って下さった!のですもの。
それも無からお考えになられて、研究して創って下さった!のですもの。
それなのに、賛美するどころか、進化だ!なんて言っている!のですから。
なんて不信仰な人なのでしょう!
なんて、自分中心に考える人なのでしょう!
自分中心に考える!とは、自分の罪を許していただく事!だけを考えている!という事です。
自分が“ある”ことを考えず、自分があることは、当たり前のことであり、それを前提としている!のですから。
でも、イスラム教は違います。
人間を創りたもう神!と、明記していて、コーランでそれを唱えている!のですから。
キリスト教も創世記の1章!を唱えたら!良いのです。
最も重要な部分を教会で唱えたら!良い!のです。
何億年の時空と、無限の神の叡知と愛を、濃縮している部分を教会で唱えたらよい!のです。
神様!イスラム教に於いて、神の神たるゆえん、神が人間を創ってくださった!というところが、今もなお、口から語られている!こと、神を信じるのは、人間を創ってくれたから、そのお方様を神と信じる!と、申し述べている!こと!
そのことは、すばらしい事である!と、思います。
このしもべも同じ考え!です。
神の神たるゆえんは、創って下さった事にある!と、思っています。
罪の問題は二の次!です。
もし、神様!あなた様が罪を罪と定めなければ、罪は問題にならない!のですものね。
神と人間の間で罪が問題になる!のは、神が人間を行った罪に対して裁く!という事柄が前提になっている!のです。
もし、罪が神に対してなんの関わりをも持たないものであり、神が人間を裁かないもの!であるなら、神よ私の罪を許して下さい!と、祈ることもない!のですものね。
神様!もし、あなた様が人間を御覧になられて、罪を第一義にその人間を御覧になられ、人間を評価!する、お方様である!なら、罪を許して下さい!と、申し上げなければいけない!のです。
でも、もし、あなた様が罪をなんとも思わないお方様!である!なら、あなた様に向かって「私の罪を許して下さい!」と、申し上げる必要はない!のです。
でも、あなた様は、罪がお嫌いなお方様である事は、間違いありません。
それで、許す!と、おおせになられた!のですものね。
「キリストを信じる事により、人間の罪を許すであろう!」と、ご自分でお決めになられた!のですものね。
それで、このしもべも「アリガトウゴザイマス!キリスト様があなた様の御子である事を信じます。そして、あなた様がおられることを信じます!」と、申し上げる!のです。
罪の許し!を、問題とされた!のは、あなた様!です。
人間の罪を問題にされた!のは、あなた様!です。
それは立法!をお創りになられた故!です。
もし、立法をあなた様がお決めにならなかったら、立法に照らし合わせることもない!ので、立法を行わないことによって、発生する罪もできないことになります。
でも、あなた様が人間に対して罪!を問題にされたのは、ご自分が人間に対する法律をお定めになられた!からです。
野の生物達には、罪はありません。
きっとそうでしょう。
それは、神様!あなた様は野の生物達に法律をお定めにならなかった!ためです。
でも、もしかしたら“ある”かもしれません。
『みだりに殺すなかれ。それは、自分の空腹を満たすだけでとどめよ。みだりに他の動物の血を流すなかれ。』と、お決めになられた!かもしれませんね!
それで、動物達もそれを守っている!のです。
きっとそうです。
それは、DNAでお創りになられた時、しっかり織り込んだ!のかもしれません。
神の立法!として、テープを流すDNA!を、お創りになって織り込んだ!のかもしれません。
でも、人間の場合は特別です。
しっかり立法をお決めになられた!のです。
それで、その立法を守らないものは罪!と、なった!のです。
罪の発生はそこから出ました。
罪は立法によってできました。
それで、あなた様は御覧になられて、罪を許そう!と、お考えになられた!のです。
でも、立法を無くしよう!とは、お考えになられませんでした。
それで、今でもきっと、立法は“ある”のです。
人間の行うべき立法は“ある”のです。
今、神は人間を御覧になられる時、罪だけを測りにかけられる!のでしょうか。
美人であるか!とか、心は美しいか!とか、心の様子はどうか!とか、何のために働いているのか!とか、楽しんでいるのか!とか、苦しみに耐えられたのか!とか、全てを御覧になる!のではないでしょうか。
それが、神と人との対話!になる!のではないでしょうか。
神は今、人を御覧になられる時、モーゼに与えた十戒!も守られているか!をも問われる!でしょうが、その他もっと、もっと、神が創られた理由!神が人間を創られた人間の状態、完璧な人間を創られた!そのわけ!完璧な人間を創られたお方様が、人間に求められているもの!が、果たして行われているか!
完璧に創った人間が完璧であるか!
どの程度完璧であるか、それは、立法に照らし合わせて!ではなく、勿論それも1つの見る尺度!なのでしょうが、そこを超えて、人間の存在はどのようにあるべきか!という、神のお考えの尺度に照らし合わせて御覧になられる!かもしれません。
でも、もしかしたら愛する我が子よ!と、おっしゃられている!かもしれません。
それは、親が子を愛する!ように。
尺度というもの、評価の基準というものを、まったくお持ちにならない!かもしれません。
そうして、評価もしない!かもしれません。
そして、モーゼに決めた人間の守るべき十戒を『守れ!』と、おっしゃられ、『それについて罪をおかすべからず!』と、おっしゃられ、『もし、罪をおかしたら、キリストにより罪を許されよ!』と、おっしゃられている!のでしょう!
神は『罪を許す。キリストにより罪を許す!』と、おっしゃられ、罪の問題は解決された!のです。
そして、人間を御覧になられている!のですよね!
そうしますと、神にとしまして、神と人間の関係は罪!をどのように処理されるか!ということではない!と、考えます。
神は処分しない!のです。
人間を処分しない!のです。
『もし、罪があったら、キリストによって、許してもらいなさい!キリストは罪を許す権威を持っている!のだから!』と、おっしゃられておられる!のです。
人間が生きる上で、問題になるのは罪だけ!ではありません。
どのように生きるか!それが問題!です。
神はきっと、それを御覧になっておられる!のかもしれません。
『愛しい人間よ、
私が完璧に創った人間よ、
おまえはどのように生きる!ことを欲し、今、何をしているのかね。
私がおまえを完璧に創ってやった!その完璧さ程におまえは完璧に成れる!のだよ。
いくらでも向上できる!のだよ。
考えよ!そうすれば、いくらでも考えられる!のだよ。
私は、おまえにすばらしいものを、たくさん創って与えた!のだから、それを使って向上せよ!
私のおまえ達に求めている!のは、もっと高い“存在”なのだよ。
私は、もっと良いものに成れる!ようにおまえを創った!のだよ。
私が定めた十戒は、最低のライン!である!と、思いなさい。
人間にも法律がある!ように!
それは、決して行ってはいけない最低の行為を規制するためのもの!であるように。
人間を創ったもの!として、これは行ってはいけない事!を、
創った私が決めたものなのだよ!
だから、創った私が本当に人間に求めるものは、これではないのだよ。
もっと、もっと立派な“存在”に成ることだよ。
それは、真理を知る知恵を持つ人間!として
創った私は、あなた達にもっと知恵を使って、もっと、もっと立派な“存在”に成ることを希望している!のだよ。
子供が立派な人間と成ることを望む親!のような気持ちだよ。
それは身分が高いとか、権力を多く持っているとか、お金や財産を多く持っている“存在”ではない!のだよ。
私が与えたものを立派に使っているかどうか、という事だよ。
もっと立派になりなさい。
おまえ達の中にあるメカ達のように、全ったき者!になりなさい!
そう、おまえがいみじくも、青森賛歌で言っていたような、高潔な人間、純真な人間、知恵深い人間、そのような人間に成ることだよ。
求めよ、さらば与えられん!
求めるものは、立派な人間に成ることだよ。
知性、理性、感性ともに、それらは私が与えた!ものであるからね。』
神様!あなた様は、このようにお語りなっておられるようです。
イエスの御名によって、アーメン
1999年11月22日(月)

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